2011年5月15日日曜日

八日目の蝉

角田光代の中公文庫を読みました。映画上映中なので、ネタバレは控えますが、内容はHeavyでした。次々に疑問に思うことが多いのです。



以下ネタバレ。
誘拐した犯罪者も実の子供を誘拐された被害者もいろいろな感情を当然持っていて、その溝はなかなか埋めようにも埋められない。どんなに好きな人でも妻帯者がいる人の言葉を無償に信じている女性が不憫に思えてなりません。また、誘拐された子供は、誘拐した女性を母だと信じて思って育ってきているため、その衝撃的な事実は計り知れないものがある。実の親の家に戻ってからも居場所がないため、家を出て、単身で生活して女子大生をしている。誘拐した女性を許すことができるのか、また、実の親がどんなふうに誘拐された子供(自分)を受け入れるのか、どのように接したら家族の一員として居心地がよくなるのかわからない。そういう葛藤があって、登場人物のそれぞれが抱えている溝は深まるばかり。家族としての機能がうまく働かないことの絶望感、喪失感が誘拐された子供にも子供を誘拐された両親にも確かにある。人間の奥深さ、強さ、不器用さを抱えつつ、自分や家族にいたわりの気持ちを持ち、家族という単位を再構築する意気込みを誘拐された被害者である主人公が考えて、自分の居場所を探し続けます。そして、最終的には、家族とはなにか考え、これからの生き方を定めています。個人的に、私は、不倫相手の子供を誘拐して、実の母親のように大切に慈しむことのできる誘拐犯の気持ちが最後まで理解できなかった。この小説は、人間のドラマが繰り広げられている。そして、人は歴史を繰り返すといわれているけれど(被害者である子供が大人になってから誘拐犯の母親と似通った道を選びます)、どんなに過酷でも、前を向いて歩いていくしかない。そんな覚悟や強さを主人公から感じるのです。眠いので内容がぐちゃぐちゃかも。お休みなさい。

0 件のコメント:

コメントを投稿